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  • アナザーガンダムはいい加減ファーストガンダムとの対比をやめたほうがみんな幸せになれると思うのだけれど、受け手の側もいちいち対比させて見なければいいとおもう。

 AGEは子ども向けといいつつどうにもいわゆるガンダムっぽさが見え隠れするので、受け手は子ども向けだから大人の受け手はだまるべし、とするかガンダムっぽさが見え隠れするうちはガンダム文脈で評価しなくちゃいけないのかがはっきりせず見ていてモヤモヤする。
 WにしてもGにしてもあるいはターンAにしてもガンダムっぽくないからガンダムの文脈と切り離して評価することができた。ここでいうガンダムっぽさってのは非常に曖昧だけれど、戦争とか戦争に不条理に左右される人間劇ってあたりなんだろうけど、AGEはそれがなさそうでありそうなので評価しにくい。むしろUEはトップをねらえの宇宙怪獣並に知性はあるけど意思疎通は不可能な存在なら、未知の敵に対して強力な武器で無双するという楽しいガンダムと思えるのだけれど、変に人間ドラマや細かい伏線があって、「子ども向けだから細かいことはいいんだよ」と思えばいいのか「戦争の悲惨さを描こうとして失敗しかけているのか」評価の仕方がいまいちわからない。ここらへんのもやもやっとした感じがAGEをみてて「面白いのかどうかわからない」感じになっている。
 どっちに転んでも面白ければそれでいいのだけれど、作画的に後者だと辛いつううのはある。
 本放送前はイナイレくらいぶっとんだ新しい子ども向けガンダムを期待していただけに、本放送みてとまどっている。
 まあ、あとフリットがロボット乗る理由がいまいちわからんで共感できないってのが一番辛いところ。正規軍がいる中で少年がロボットに乗る理由ってのは絶対必要だと思うけどそこが弱いのがなんとも。一応ガンダム作ってたからという理由はあるけれどフリットって最初はラーガンに乗らそうとしてたわけだし、動機が薄いと感情移入できなさすぎで見ていて辛い。

 まあ、まとめるとイナイレくらい大人向けリアリティを排除して振り切ってくれればおっさんガノタは黙っておこうと思えるけど、所々ガンダムっぽい「戦争の悲惨さ、無意味さ」とか「戦争を描こう」としていて受け手としてどういうスタンスで視聴すればいいのかがわかりにくい。大人向けにも作ってそうに見えるうちはやっぱり「突っ込みながら視聴」せざるをえない感じ。

 アナザーガンダムの成功例はWにしてもGにしてもターンAにしても「ガンダムにとらわれない自由さ」があった。AGEは「ガンダムっぽさ」が消えてからが本気。というか単にあの作画で重たい話は無理だと思う。それこそ毎回必殺技が出てくるくらいはっちゃけてくれたほうが素直に楽しめた。あの作画で戦争の悲劇とか見たくないっすよ。

 イナイレ見て「これはサッカーじゃない」という突っ込みが無粋なくらいAGEはガンダムでないほうがぼく的には好み。まあ、どっちに転がるかはまだわからんのでとりあえずは視聴しますがー。

人類を救おうと思えるか? デビルマン再読・セカイ系?

漫画版デビルマンを久しく読んでなかったので、再読してみた。
アモンと合体する前の不動明はちょっと不良にからまれただけでも逃げを考える、割と気の小さいキャラクターとして描かれている。
で、親友の飛鳥了から「デーモンが人類を襲う!デーモンとの戦いは危険だが協力してくれないか?」と言われるとほぼ即答で「わかった。人類を救うためなら多少の危険はやむをえない」と言い出す。
再読前は絵柄とか台詞の感じで時代を感じてしまうかなあと思っていたのだけれど、むしろこの不動明の即答っぷりのほうに時代を感じた。

今の時代で似たような設定で物語りを紡ごうとしても、もうワンテンポ入ると思うんだよね。例えば「人類を救う手段は手に入れた。だが、全員を助けることはできない。一体だれから助けるべきか」みたいなね。それはつまり何かというと「世界を救う」となったときに「その主人公にとっての世界とは何か」という疑問だと思うんだよね。疑問というか定義づけと言ったらいいのかな。

それは一体どういう意識の変化というと「地球の裏側にいる人間を身近に感じられるか」ということだと思う。自分の周りには友人家族がいてその先に国家があってその先に世界が存在する。友人家族までは想像できてもその先のルートのどこかで世界から分断されてしまう。「お前には世界を救う力がある!」と言われても「うーん、言葉も通じない人間をリアルに想像できないよ。リアルに想像できない人間ははたしてぼくにとって人間なのだろうか。だってそもそも向こうもぼくを人間扱いしてくれるとはかぎらないわけだし」とまあこういった感じの心境なんだろうな。少なくとも自分だったらそう思う。

まあ、そうなった背景には高度経済成長期からの核家族化や郊外論などの社会学が参考になるのだろう。社会が高度に細分化されたおかげで僕らがもつメニューは増えた。フランス料理もタイ料理もなんでも選べる。だからこそ、趣味趣向の違いが産まれて同じ趣味趣向ならすぐに仲良くなれる反面、合わない人との交流は難しくなった。さらにインフラ整備の充実のおかげで無理に話の合わない相手と合わせる必要がなくなったからだ。それを一概に不幸とは呼べないだろう。

つまりデビルマンが描かれた頃は「多少の違いはあれど、みんな一緒」だから「世界を救おう」までの距離が近かったけれど、今は「多少の違いはかなり違うこと」だから「世界」は遠くなってしまった。

と、なってくるとあれほど不思議な存在だったセカイ系のことが少し読み取れる気がするのだ。セカイ系の世界とは簡単に言ってしまえば「きみとぼくの世界」であり、俗っぽく言ってしまえば「かわいいきみと恋愛できるこの世界」なのだろう。「世界」は遠いけれど「世界」がなくなってしまうと「かわいいきみと恋愛できなくなる」から「世界を救おう」になるのだろう。その程度の「世界」だから「セカイ」と呼ばれてしまうのかなあとも思う。でも、セカイ系は逆説的に「世界が滅びる?よし救おう」と動機づけできる物語構造を生み出すことができた。割と嫌われがちな、そしてぼくもあんまり好きではないセカイ系だが、「世界を救う」動機付けをもってくることのできたセカイ系はそんなに悪くない物語なのかもしれない。

ただ、「かわいいきみと恋愛できる世界」だから「世界は素晴らしい」は長持ちしなかった。そりゃそうだ。そんな「世界」が好きなら別に世界の危機なんて必要ではなく、ひたすら「かわいい君といちゃいちゃ」していればいいのだから。

そう考えると現代のヒーローは大変だ。人類の敵に対する主人公にいちいち主人公がなぜ戦うのか説明しなくちゃいけない。まどマギなんて1クールかかっちゃったぜ。

いや、なんか最後ちょっとちゃかして書いてしまったけど、割とその主人公が「どうして世界を救おうなんてだいそれたことをやろうとするのか」「どうしてそうまでして正義にこだわるのか」という動機付けに着目して物語りをみているところがあるので割りと真剣なんですよ。

脳ブームに乗っかってみた〜ぎりぎりで聞こえる自分の悪口

学習とはある意味能力の低下である、という話はよく聞きます。速読関連で言えばページをパラパラめくるだけで読めるとか、この訓練ができるのは小さいうちだけ、とか。
が、この話聞くたびに疑問が浮かぶんだよね。疑問とは「新しい知識を得るときも使えるの?」ということです。
この手の速読ができる子に専門書を見せて理解できるのだろうか。というか、その速読が有効なら小学校の教科書をぱらっと読んで終わりじゃないのか。みたいな。
結局のところこれで読めるのは自分の理解できる範囲に限られるのではないでしょうか。ただ、まあ理解はできなくとも頭に入るのだとしたら全く役に立たないわけではないとは思います。
この辺の話は「おおきく振りかぶって」でも触れられてましたね。

で、感覚の不思議な話は主に視覚の話が多いのだけれど、今回は聴覚の話。

S/N比という言葉がある。SignalとNoiseの比率のことで、聴覚では健常者は-10〜-20dBと言われています。
参照
SN比と聞き取りテストの関係のグラフ(その1)
http://phonakfm.blogspot.com/2011/06/sn.html

どういうことかと言うと人は10dB〜20dBまではノイズカットできるということです。
人が一メートルの距離で話している声が大体60dBと言われています。なので、周囲の騒音が70〜80dBまでなら相手の話す内容が聞き取れるということですね。
このノイズカットは自然に行われるものです。話し手より大きな音を必要ない情報だと無意識に選択しているのですね。

ちなみにこれは健常者の成人の場合で、先天性の聴覚障害の方ですとこのSN比が逆転します。
先天性の聴覚障害の方の場合、補聴器や人工内耳を用いて聴覚を補助することは可能なのですが、どうもノイズのほうを大きく拾ってしまうようです。
このことから音の情報もかなり脳が恣意的に情報を選択していることがわかります。

話を速読に戻しますと、乳児は成人よりたくさんの音を拾っています。
たいていの成人日本人は「r」と「l」の発音の区別ができません。
ですが、もし英語圏で育っていればその区別は成人になってもできます。
もちろん視覚と同様、聞こえる音と聞こえない音にハードウェア面で制約がありますが、ソフトウェア面では割と融通がきくようです。

このSN比で考えれば「飲み会なんかで自分の悪口が言われた時だけ聞こえる」といういわゆるパーティ効果を説明できそうです。
つまり、悪口以外も−20dBまではそもそも聞こえているわけです。で、自分の名前が呼ばれることに人は敏感ですからそちらに注意がむく、と一応説明はできます(私は素人なので学術的にどこまで正しいのか知りません、あしからず)。

補足説明としては視覚や聴覚等はトップダウンボトムアップの2系統が存在するようです。
急に大きな音がしてそちらを向くというのはボトムアップにあたります。
音がする→脳が刺激を受ける→音の方向に注意を向ける
という系統ですね。
トップダウンの場合は相手と目を合わせて会話するときなどの場合です。
相手のいうことを聞こうと最初から注意している→相手が話す→脳が情報を受け取る。

僕らは全て感覚はトップダウンで処理していると思いがちですが、パーティ効果を考える場合、ボトムアップ処理のことを考えるとそれほど不思議ではないように感じます。

で、こっからは完全に与太話なのですが、そもそもその自分の悪口かどうか判断しているのは一体だれなんでしょうね?
急に大きな音がする。何かが目の前を横切る。これらは反射的なもので人間に限らず様々な生物に備わっている機能だと理解できます。
でも自分の悪口となるとかなり複雑な情報です。必要かどうかはかなり社会的な判断に基づいているといっていいでしょう。もっと言えば言語中枢まで情報が到達して初めて処理される類のものです。
当然、言語中枢は左半球の大脳皮質にあります。フロイト的に「それが無意識という意識だ」と言い切っちゃっても説明はつきます。が、どうしてそんな機能が備わったのか。もっといえばどうやってその機能を獲得していったか、と考えるとなかなか難しい話になりますね。

今日の教訓:人の悪口いうときは気を付けましょう

90年代アニメとゼロ年代アニメ

ゼロ年代アニメの語られ方ってエヴァ以降としてのセカイ系とその反動としての決断主義という流れと、秋葉的な「萌え」文化とその派生系である日常系という切り口が多いように感じていた。で「萌え」とか「キャラ」とかもエヴァが起点とされ、つまりゼロ年代アニメとはエヴァ以降なのだ!と強引にまとめられることが多かった気がする。そのおおまかな流れの認識に異論はない。が、じゃあゼロ年代アニメは新しいものが何もなかったのかと言われればやはりそれは違うだろうと思う。
 
というのも、まどか以降今年になってむさぼるようにアニメ観ているのだがほんと最近のアニメはよくできてますわ、というのが正直な感想なのです。ただ、この「よくできている」というのはいい意味でも悪い意味でも使っている。どういうことかというと完成度が高いということだ。では、なぜ完成度が高いことが悪い意味になってしまうのか。

例えば「あの花」はよくできたアニメだ。1クールで言いたいことをきっちりまとめてくれた。作画の乱れもないし、話は最後までぶれない。とはいえ、ユキアツを中心に遊び心も包括しており文句のつけどころがない。わかりやすい対比としての90年代アニメをとりあげるなら例えば「不思議の海のナディア」、もっというと島編。作画も物語の停滞っぷりも半端なかった。あの頃ツイッターがあればみんなぶーぶー言ってただろう。じゃあ、その中だるみを排除してすっきり再構成しなおしたら「不思議の海のナディア」という作品は良くなっただろうか。

たしかに完成度はあがっただろう。でも、それによって切り捨てられる部分も多かったのではないだろうか。

ナディアに限らず、90年代以前のアニメは3クール4クールが当たり前で、当然話の本筋としてなくてもいい話は多かった。しかし、繰り返されるモチーフには確実に意味があった、と私は思う。

島編でいうなら、話自体は進んでいないのだけれど「ナディアは相変わらずわがままだなあ」とか「ジャンはナディアのことを一生懸命考えるいい子だなあ。でも、基本オタだから地雷踏んでばかりだ」と毎回思っていた。この毎回繰り返されるということに意味はあるのだと思う。

どういうことかというと、話は進まなくともキャラクターが掘り下げられるということだ。キャラクターが掘り下げられるから、その後話が進んだときに大きな効果をもつ。プロットレベルだけでなく、キャラクターの成長を見届けられる。そして、それは物語にとってプラスだと思うのだ。

これが完成度の高いゼロ年代アニメが失ってしまったものである。

が、ここで一つ留意点を。上記の話はあくまで深夜アニメの話にすぎない。例えば輪るピングドラムと同じくらい今期イチオシなイナイレでは上記の島編のようにキャラクターを掘り下げながら展開される。プリキュアなんかもそれにあてはまるだろう。

では、なぜゼロ年代アニメはそうしたゆったりとした展開をはぶいて1クールできっちり一つの物語を完結させることができたのか。これは「萌え」や「キャラ」や「属性」の成果だと考える。それらがなかった時代では「ナディアが大人の事情を理解せず、正論だけどわがままにしかみえない人格の持ち主」という説明をするにはそれなりの話数をさかなければならない。ところが「ツンデレキャラ」や「眼鏡属性」という概念を入れることで、そこらへんのキャラ造形/受け手の理解が大分ショートカットできる。受け手の側に「ツンデレ」という概念がありそこからコンテンツ側が典型的なツンデレからずらすキャラ造形をすることで話数をさくことなく「キャラクターを描くことができる」。受け手に「ツンデレ」があるからこそ「牧瀬クリス」はそこからちょっとはずれた「キャラ」だと認識できるわけだ。

まとめると「キャラ」「属性」という概念がうまれることで話を停滞させることなく受け手に「キャラクター」を認識させることができるようになった。これは作劇の手法として90年代アニメからおおきく進歩した利点だと考える。それによって完成度の高いアニメを量産できるようになった。

しかしその一方でツンデレである「クリスティーナ」とナディアはナディアということしか言うことができない「ナディア」という「キャラクター」性には大きな差がある。そして、それは功罪両方の側面が存在するだろう。

ただ、特にまどか以降のアニメの充実度を考えると功罪の功のほうが目立つ気がする。おっさんのノスタルジー的には失われちった悲しみはあるが、進歩性を是とするオタとしてはよろこばしいかぎりだ。

結界師ラジオにゲストさせていただきます。

結界師』@漫研ラジオにゲスト参加させていただきます。
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/4fab306522ebeb5767dce71649f257e9
個人的に「結界師」には思い入れが強くて・・・。
たしかにサンデー的な優等生的作品ということは可能なんですけど、それ以上のポテンシャルを持っているとおもうので、それを伝えることができたらなあと思っています。

よろしこ。

非日常は共有化されないといけないのか〜日常系について思うこ

http://d.hatena.ne.jp/sajiki/20110428/1303961831の続き。

1.そもそも非日常って何?
 前回の記事では個人レベルの非日常とは、必ずしも他者とは共有できないというのが大まかな話であった。だとすると、日常の中に非日常が存在する、というのはありうる話である。さらに言えば日常と非日常は二分法で区別されるものではなく、地続きなものであるということはありうる。
 では、なぜ僕は日常/非日常を区別したがるのだろう。初期村上春樹作品において顕著だと思うが作品のはしばしに「これは社会的にはどうってことない話だけれど、僕にとっては重要な話なのです」という意識があった。
 村上春樹学生運動をリアルタイムで経験した世代なので、みんなが共有する非日常に警戒心をもっていたのだと思う。
 そう、人が非日常というとき、あるいは日常系作品に物語性がないというとき、それは世間が共有できるという意味での非日常であると留意すべきではないのか、と私は思う。
 だとするならば大江健三郎の「個人的体験」という小説の主題にみられるように、世間的に、もっといえば他人には簡単に理解されない非日常体験というのもあってしかるべきであると私は思う。
 ここらへんは言葉遊びになってしまっている感はあるが、私が言いたいのは「非日常の必要条件にみんなが共有できるの?」という疑問なのである。その共有されえない非日常があり、それを描く作品というのは近代以降の文学がずっと扱い続けてきたテーマであり、特に目新しいものではない。

2.じゃあ、昨今の日常系は何が違うの?
 一言でいえば悩みである必要がなくなったということだと思う。「個人的な体験」でいうなら、「子どもができたと思ったら障害児のようだ、どうしよう」と個人的な悩みでありつつ、その問題意識は共有されやすいものであった。もう少し踏み込んでいうなら、「現実的にはありうる話だし、自分がその立場になったら大変だと思う。けれど、実体験としてそのような経験はないのでフィクションとして読むことができる」というのが一般的な読者の視点だと思う。
 つまりリアリティの話として想像はできるのだけど、マクロを描いていないというだけで、やはり他人事つまり非日常の話だと受け取ってしまうのだ。
 そう考えるとらきすたけいおん日常が文学作品と似て非なるものだということがわかるような気がする。らきすたはオタクあるあるだし、けいおんは姿形は女子高生であるとはいえオタクホモソーシャルに置換できなくもないし、日常に至ってはつまらん日常を楽しく過ごす術という割と切実かつリアリティある作品といえなくもない。
 
3.では非日常を共有したくないのか?
 そんなことはない。メディアの選択が限られていたころには、現実に起こっている事件に対し、共有して受容するという態度が必要だった。というか、そうすることでしか事件を受容できなかった。あさま山荘事件でも日航機墜落にしてもテレビがメディアの王様だった時代においては、一度ストーリー化する、つまり事件の非日常化という作業をしなければ受容できなかったのではないだろうか。
 ところが、記憶に新しいところでは秋葉原の事件等においては、受け手のバックボーンや情報摂取の仕方によって、いくらでもストーリーを自分好みに書き換えることができる。そのような時代においてマスメディアのつくり出すストーリーはバイアスがかかっているように見えて仕方がない。さらにいえば都条例改正などにいたっては、そもそもそれを重大事件と捉えるかどうかのレベルで個人差が生じている。このような状況においては世間が共有できる非日常はうさんくさくて仕方がない。
 つまり、共有化された非日常なんていらないよ、ではなく自分に必要な非日常は自分で選ぶよ、というのが現代の感性なんだと思う。それがいいかどうかは別として。

4.で、何がいいたいの?
 特に何もw。僕は矢追純一のUFO特集とかノストラダムスの大予言が大好きだった。あのころの僕は非日常にどきどきわくわくしていたと思うし、そういった人は少なからず存在したと思う。そうした非日常に対する憧れは今も消え失せていない。
 ただ、質は大きく変わったと思う。世界が滅ぶとかそういった大きな物語だけあればいいとは思わなくなった。というか、フィクションではない現実の大きな物語がうさんくさく感じて仕方なくなった。要は世間的に騒がれている事件に対しどうでもいい、あるいは事件そのものに対して興味があってもそこのストーリー化に全く共感できないということがゼロ年代に多すぎた。
 そうした現実に対する感覚がフィクションの受容に対する感覚に大きな影響を与えているのは確かだと思う。
 とはいえナウシカマンガ版みたいな話は今でも読みたいと思うし、ファイブスターの新刊はずうっとずうっと待ち続けているし、ハンタのキメラアント編が終わるまでは絶対に死ねんと思っているし。しかし、日常が大好きな自分もいてこれは僕の物語の受容の幅が広がったと解釈して、よい時代に産まれたのう、とこれからもフィクションを楽しんでいきたいと思っている。

ミッシェルから学ぶ、現代でありうるジェネラリスト〜ちょっと江戸まで

ちょっと江戸まで」四巻より。
『武術が得意な家臣はそれをやればよいし
学問が得意な家臣はそれをやればよい
わたしがすべてをやる必要はないよ
自分が「何でも知っている」と思ったら
人の話に耳を貸さなくなるからの』
まあ、ちょい江戸はとってもわかりやすい話なのでコレ以上付け加えるのは無粋なのだが、あえて付け足すとするなら「なら、これを受けて我々、あるいは我々が選ぶリーダーは何をすべきだろうか」という視点だろうか。

昔大学生の頃だか、社会人一年生の頃だかに、読んだか、聴いたかした言葉に「スペシャリストよりもジェネラリストを目指しましょう」というのがあった。

でも、無理ですよ!そんなの!

微分積分できれば最先端数学をマスターしたことになる時代と今の時代では、よくも悪くも進歩しすぎた。今の世の中ルソーでもガリレオでもだれでもいいけどあのレベルで何でもできる人ってもういませんよ。いたら嘘ですよ。

じゃあ、我々はジェネラリストになることはできないのか?
で、そこでヒントになるのがミッシェルの言葉だと思うのですよ。

この言葉を吐けるにはそもそも学問ができる/できないを見分けることができる程度に学問ができている証拠なんですよね。わかりやすく例えると「和食・イタリア料理の善し悪しがわかる程度には舌が鍛えられてないといけない。で、善し悪しがわかるにはある程度自分で料理できないとわからない」ということだと思う。だから、ミッシェルはできるけどやらないというより善し悪しがわかる程度にはできるようになったから、次のジャンルに手を染める。ということなんだろう。

だから、ミッシェルの評価としては「この人やればできるのになぜやらないんだろう」ではなく「リーダーとして必要な分だけやり、そして様々な領域に精通している」というのが正しいはずなのだ。

だから、ミッシェルのリーダーシップの発揮の仕方って多分適材適所を上手くこなすことなんだと思う。その、適材適所がいかに難しいかをあの年代で知っているなんてどんだけすげーんだミッシェル・・・。

みたいなー。