90年代アニメとゼロ年代アニメ

ゼロ年代アニメの語られ方ってエヴァ以降としてのセカイ系とその反動としての決断主義という流れと、秋葉的な「萌え」文化とその派生系である日常系という切り口が多いように感じていた。で「萌え」とか「キャラ」とかもエヴァが起点とされ、つまりゼロ年代アニメとはエヴァ以降なのだ!と強引にまとめられることが多かった気がする。そのおおまかな流れの認識に異論はない。が、じゃあゼロ年代アニメは新しいものが何もなかったのかと言われればやはりそれは違うだろうと思う。
 
というのも、まどか以降今年になってむさぼるようにアニメ観ているのだがほんと最近のアニメはよくできてますわ、というのが正直な感想なのです。ただ、この「よくできている」というのはいい意味でも悪い意味でも使っている。どういうことかというと完成度が高いということだ。では、なぜ完成度が高いことが悪い意味になってしまうのか。

例えば「あの花」はよくできたアニメだ。1クールで言いたいことをきっちりまとめてくれた。作画の乱れもないし、話は最後までぶれない。とはいえ、ユキアツを中心に遊び心も包括しており文句のつけどころがない。わかりやすい対比としての90年代アニメをとりあげるなら例えば「不思議の海のナディア」、もっというと島編。作画も物語の停滞っぷりも半端なかった。あの頃ツイッターがあればみんなぶーぶー言ってただろう。じゃあ、その中だるみを排除してすっきり再構成しなおしたら「不思議の海のナディア」という作品は良くなっただろうか。

たしかに完成度はあがっただろう。でも、それによって切り捨てられる部分も多かったのではないだろうか。

ナディアに限らず、90年代以前のアニメは3クール4クールが当たり前で、当然話の本筋としてなくてもいい話は多かった。しかし、繰り返されるモチーフには確実に意味があった、と私は思う。

島編でいうなら、話自体は進んでいないのだけれど「ナディアは相変わらずわがままだなあ」とか「ジャンはナディアのことを一生懸命考えるいい子だなあ。でも、基本オタだから地雷踏んでばかりだ」と毎回思っていた。この毎回繰り返されるということに意味はあるのだと思う。

どういうことかというと、話は進まなくともキャラクターが掘り下げられるということだ。キャラクターが掘り下げられるから、その後話が進んだときに大きな効果をもつ。プロットレベルだけでなく、キャラクターの成長を見届けられる。そして、それは物語にとってプラスだと思うのだ。

これが完成度の高いゼロ年代アニメが失ってしまったものである。

が、ここで一つ留意点を。上記の話はあくまで深夜アニメの話にすぎない。例えば輪るピングドラムと同じくらい今期イチオシなイナイレでは上記の島編のようにキャラクターを掘り下げながら展開される。プリキュアなんかもそれにあてはまるだろう。

では、なぜゼロ年代アニメはそうしたゆったりとした展開をはぶいて1クールできっちり一つの物語を完結させることができたのか。これは「萌え」や「キャラ」や「属性」の成果だと考える。それらがなかった時代では「ナディアが大人の事情を理解せず、正論だけどわがままにしかみえない人格の持ち主」という説明をするにはそれなりの話数をさかなければならない。ところが「ツンデレキャラ」や「眼鏡属性」という概念を入れることで、そこらへんのキャラ造形/受け手の理解が大分ショートカットできる。受け手の側に「ツンデレ」という概念がありそこからコンテンツ側が典型的なツンデレからずらすキャラ造形をすることで話数をさくことなく「キャラクターを描くことができる」。受け手に「ツンデレ」があるからこそ「牧瀬クリス」はそこからちょっとはずれた「キャラ」だと認識できるわけだ。

まとめると「キャラ」「属性」という概念がうまれることで話を停滞させることなく受け手に「キャラクター」を認識させることができるようになった。これは作劇の手法として90年代アニメからおおきく進歩した利点だと考える。それによって完成度の高いアニメを量産できるようになった。

しかしその一方でツンデレである「クリスティーナ」とナディアはナディアということしか言うことができない「ナディア」という「キャラクター」性には大きな差がある。そして、それは功罪両方の側面が存在するだろう。

ただ、特にまどか以降のアニメの充実度を考えると功罪の功のほうが目立つ気がする。おっさんのノスタルジー的には失われちった悲しみはあるが、進歩性を是とするオタとしてはよろこばしいかぎりだ。