人類を救おうと思えるか? デビルマン再読・セカイ系?

漫画版デビルマンを久しく読んでなかったので、再読してみた。
アモンと合体する前の不動明はちょっと不良にからまれただけでも逃げを考える、割と気の小さいキャラクターとして描かれている。
で、親友の飛鳥了から「デーモンが人類を襲う!デーモンとの戦いは危険だが協力してくれないか?」と言われるとほぼ即答で「わかった。人類を救うためなら多少の危険はやむをえない」と言い出す。
再読前は絵柄とか台詞の感じで時代を感じてしまうかなあと思っていたのだけれど、むしろこの不動明の即答っぷりのほうに時代を感じた。

今の時代で似たような設定で物語りを紡ごうとしても、もうワンテンポ入ると思うんだよね。例えば「人類を救う手段は手に入れた。だが、全員を助けることはできない。一体だれから助けるべきか」みたいなね。それはつまり何かというと「世界を救う」となったときに「その主人公にとっての世界とは何か」という疑問だと思うんだよね。疑問というか定義づけと言ったらいいのかな。

それは一体どういう意識の変化というと「地球の裏側にいる人間を身近に感じられるか」ということだと思う。自分の周りには友人家族がいてその先に国家があってその先に世界が存在する。友人家族までは想像できてもその先のルートのどこかで世界から分断されてしまう。「お前には世界を救う力がある!」と言われても「うーん、言葉も通じない人間をリアルに想像できないよ。リアルに想像できない人間ははたしてぼくにとって人間なのだろうか。だってそもそも向こうもぼくを人間扱いしてくれるとはかぎらないわけだし」とまあこういった感じの心境なんだろうな。少なくとも自分だったらそう思う。

まあ、そうなった背景には高度経済成長期からの核家族化や郊外論などの社会学が参考になるのだろう。社会が高度に細分化されたおかげで僕らがもつメニューは増えた。フランス料理もタイ料理もなんでも選べる。だからこそ、趣味趣向の違いが産まれて同じ趣味趣向ならすぐに仲良くなれる反面、合わない人との交流は難しくなった。さらにインフラ整備の充実のおかげで無理に話の合わない相手と合わせる必要がなくなったからだ。それを一概に不幸とは呼べないだろう。

つまりデビルマンが描かれた頃は「多少の違いはあれど、みんな一緒」だから「世界を救おう」までの距離が近かったけれど、今は「多少の違いはかなり違うこと」だから「世界」は遠くなってしまった。

と、なってくるとあれほど不思議な存在だったセカイ系のことが少し読み取れる気がするのだ。セカイ系の世界とは簡単に言ってしまえば「きみとぼくの世界」であり、俗っぽく言ってしまえば「かわいいきみと恋愛できるこの世界」なのだろう。「世界」は遠いけれど「世界」がなくなってしまうと「かわいいきみと恋愛できなくなる」から「世界を救おう」になるのだろう。その程度の「世界」だから「セカイ」と呼ばれてしまうのかなあとも思う。でも、セカイ系は逆説的に「世界が滅びる?よし救おう」と動機づけできる物語構造を生み出すことができた。割と嫌われがちな、そしてぼくもあんまり好きではないセカイ系だが、「世界を救う」動機付けをもってくることのできたセカイ系はそんなに悪くない物語なのかもしれない。

ただ、「かわいいきみと恋愛できる世界」だから「世界は素晴らしい」は長持ちしなかった。そりゃそうだ。そんな「世界」が好きなら別に世界の危機なんて必要ではなく、ひたすら「かわいい君といちゃいちゃ」していればいいのだから。

そう考えると現代のヒーローは大変だ。人類の敵に対する主人公にいちいち主人公がなぜ戦うのか説明しなくちゃいけない。まどマギなんて1クールかかっちゃったぜ。

いや、なんか最後ちょっとちゃかして書いてしまったけど、割とその主人公が「どうして世界を救おうなんてだいそれたことをやろうとするのか」「どうしてそうまでして正義にこだわるのか」という動機付けに着目して物語りをみているところがあるので割りと真剣なんですよ。