個性が大事!←それって本当?〜ねじまきカギューとかちはやふるとかフォーゼとか

ねじまきカギューのキャライズムってバズワード化した「個性」を取り巻くワードだと思っている。と、すると役に立たないキャラはいらないとする学園長は「社会の役に立たない個性は無意味」とする社会からの要請とかぶる。学園長は表向き「個性は大事」といいつつ「最近の若者は・・・」といってしまう現実を映しだしているのだろう。むしろ役に立たないキャラなんてキャラじゃないと言い切る学園長のほうがはるかにマシって考えてしまう。
・学園長と対比されるカモ先生は本来的な意味での「個性が大事」を全面に打ち出しているといえる。ゆえに上記の理由によりうさんくささが出てきてしまっている。
・でも学園長とカモ先生なら絶対カモ先生なのであって、それはフィクションだからとか所詮ファンタジーだからという理由だけではない。多分、「個性」にはそれを見抜く眼力が必要で今のところ(単行本4巻時点)その能力がカモ先生のが上回っているように見えるからだろう。
・つまり「個性が大事」という建前を成立させるためには個性を見抜いている/見ようとしている姿勢が大事ということなのだ。では現実世界でそれが出来ている/出来ていたかというと出来てなかったよなあ。そんな建前いうくらいなら「才能」と言い切ってしまったほうが思春期以降の子どもにとっては救いだと思う。それなら才能/個性を磨こうと思うわけで。
ゼロ年代のフィクションはラノベや萌え作品を中心にキャラクターの時代だったといえる。それは建前としての個性(才能)ではなく本来的な意味での「個性が大事」を体現していたのかもしれない。ツンデレなんて現実世界ではめんどくさいだけなわけだしw。
ねじまきカギューほど過激ではないにしてもアニメちはやふる仮面ライダーフォーゼでも才能を伸ばすことは欠点もそのまま残すことであるという描写が見られる。そのためには才能と裏表の欠点を受け入れる度量が必要なのだ、ということを我々に教えてくださるありがたい作品なのだ。だとするとフォーゼはともかくちはやふるは本当深夜アニメじゃないよなあ、と。
・そんな感じで最近はようやく個性という言葉がバズワードじゃなくなったといえる時代になりつつあるのかな、と。というかバズワードからはじまる言葉が広まる現実世界ってどうよ。
とかなんとか。