非日常は共有化されないといけないのか〜日常系について思うこ

http://d.hatena.ne.jp/sajiki/20110428/1303961831の続き。

1.そもそも非日常って何?
 前回の記事では個人レベルの非日常とは、必ずしも他者とは共有できないというのが大まかな話であった。だとすると、日常の中に非日常が存在する、というのはありうる話である。さらに言えば日常と非日常は二分法で区別されるものではなく、地続きなものであるということはありうる。
 では、なぜ僕は日常/非日常を区別したがるのだろう。初期村上春樹作品において顕著だと思うが作品のはしばしに「これは社会的にはどうってことない話だけれど、僕にとっては重要な話なのです」という意識があった。
 村上春樹学生運動をリアルタイムで経験した世代なので、みんなが共有する非日常に警戒心をもっていたのだと思う。
 そう、人が非日常というとき、あるいは日常系作品に物語性がないというとき、それは世間が共有できるという意味での非日常であると留意すべきではないのか、と私は思う。
 だとするならば大江健三郎の「個人的体験」という小説の主題にみられるように、世間的に、もっといえば他人には簡単に理解されない非日常体験というのもあってしかるべきであると私は思う。
 ここらへんは言葉遊びになってしまっている感はあるが、私が言いたいのは「非日常の必要条件にみんなが共有できるの?」という疑問なのである。その共有されえない非日常があり、それを描く作品というのは近代以降の文学がずっと扱い続けてきたテーマであり、特に目新しいものではない。

2.じゃあ、昨今の日常系は何が違うの?
 一言でいえば悩みである必要がなくなったということだと思う。「個人的な体験」でいうなら、「子どもができたと思ったら障害児のようだ、どうしよう」と個人的な悩みでありつつ、その問題意識は共有されやすいものであった。もう少し踏み込んでいうなら、「現実的にはありうる話だし、自分がその立場になったら大変だと思う。けれど、実体験としてそのような経験はないのでフィクションとして読むことができる」というのが一般的な読者の視点だと思う。
 つまりリアリティの話として想像はできるのだけど、マクロを描いていないというだけで、やはり他人事つまり非日常の話だと受け取ってしまうのだ。
 そう考えるとらきすたけいおん日常が文学作品と似て非なるものだということがわかるような気がする。らきすたはオタクあるあるだし、けいおんは姿形は女子高生であるとはいえオタクホモソーシャルに置換できなくもないし、日常に至ってはつまらん日常を楽しく過ごす術という割と切実かつリアリティある作品といえなくもない。
 
3.では非日常を共有したくないのか?
 そんなことはない。メディアの選択が限られていたころには、現実に起こっている事件に対し、共有して受容するという態度が必要だった。というか、そうすることでしか事件を受容できなかった。あさま山荘事件でも日航機墜落にしてもテレビがメディアの王様だった時代においては、一度ストーリー化する、つまり事件の非日常化という作業をしなければ受容できなかったのではないだろうか。
 ところが、記憶に新しいところでは秋葉原の事件等においては、受け手のバックボーンや情報摂取の仕方によって、いくらでもストーリーを自分好みに書き換えることができる。そのような時代においてマスメディアのつくり出すストーリーはバイアスがかかっているように見えて仕方がない。さらにいえば都条例改正などにいたっては、そもそもそれを重大事件と捉えるかどうかのレベルで個人差が生じている。このような状況においては世間が共有できる非日常はうさんくさくて仕方がない。
 つまり、共有化された非日常なんていらないよ、ではなく自分に必要な非日常は自分で選ぶよ、というのが現代の感性なんだと思う。それがいいかどうかは別として。

4.で、何がいいたいの?
 特に何もw。僕は矢追純一のUFO特集とかノストラダムスの大予言が大好きだった。あのころの僕は非日常にどきどきわくわくしていたと思うし、そういった人は少なからず存在したと思う。そうした非日常に対する憧れは今も消え失せていない。
 ただ、質は大きく変わったと思う。世界が滅ぶとかそういった大きな物語だけあればいいとは思わなくなった。というか、フィクションではない現実の大きな物語がうさんくさく感じて仕方なくなった。要は世間的に騒がれている事件に対しどうでもいい、あるいは事件そのものに対して興味があってもそこのストーリー化に全く共感できないということがゼロ年代に多すぎた。
 そうした現実に対する感覚がフィクションの受容に対する感覚に大きな影響を与えているのは確かだと思う。
 とはいえナウシカマンガ版みたいな話は今でも読みたいと思うし、ファイブスターの新刊はずうっとずうっと待ち続けているし、ハンタのキメラアント編が終わるまでは絶対に死ねんと思っているし。しかし、日常が大好きな自分もいてこれは僕の物語の受容の幅が広がったと解釈して、よい時代に産まれたのう、とこれからもフィクションを楽しんでいきたいと思っている。