[日記]事実に基づいたストーリーに対する違和感

父親にメールを送りながら亡くなった気仙沼の女の子はいなかった

クオリティの低いストーリーだから事実だという色付けをしちゃっているだけの話で、これが最初からフィクションだとわかっていたら、これほど陳腐な話はない。少なくとも、震災についてまじめに考えていた人なら、ああいう災害時の状況に反した筋書きにはしないだろう。(略)こういうデマを許容するということは、フィクションとして通用しないレベルの作品に事実だと味付けすることを認めることになる。それでいいの?

http://n-styles.com/main/archives/2012/03/10-040000.php

僕にはわからない感覚だが、「事実を元に作ったストーリー」とついただけで作品の見方が変わる人がいるらしい。もちろん、そういう人を非難するつもりは全くないが、そういう人の心理を利用して嘘のストーリーをでっちあげるのはさすがにどうかと思う。

「事実は小説より奇なり」というけれど、それって裏を返せば「事実を元に作ったストーリー」という一言があるだけでどんなご都合主義も許されてしまうということでしょう?

作者は必死でご都合主義と呼ばれないようストーリーの整合性を整えつつ、それを踏まえた上で面白い作品をつくろうとしている。今回のケースやゲーセン少女の話はそういう人たちの心理を利用して嘘をついている(もちろんリンク先にもあるように「悪魔の証明」になるため完全な嘘ということはできないが・・・)。

「事実を元にしたストーリー」がいけないというのではない。この文言さえあればフィクションと同レベルで語ることができる。作品鑑賞していても「どっか脚色しているところがあるのだろうな」と思うことができるからだ。

いずれにしてもフィクションを愛する人間からすれば非常に残念なことであることには間違いない。