わからないという想像力

 先日、電車で外出機会があった。ある駅に着いたときのことだった。列車の中から止まった駅の駐車場が見えた。その、駐車場に父と息子と思われる二人の人間が、駐車している車の中にいた。

 息子と思われる少年は、高校生くらいだった。父親は必死に息子の顔をハンカチで拭いていた。少年は泣いていたのかもしれない。距離が離れていたため、涙までは見ることはできなかった。

 そのとき、ぼくに言いようのない思いがこみ上げてきた。その感情に名前をつけることができない。

 その情景から、いくらでもストーリーを見いだすことができる。時期が時期だから、少年は受験で失敗したのかもしれない。そんな息子を父親がなぐさめている。そういうありがちなストーリーを想像して、分かった気になる。でも、それは間違いではないだろうか。

 その根拠は父親が息子の顔にハンカチをこすりつけていたことに由来する。ここで違和感が生じた。普通(という言葉は本当は軽々しく使ってはいないのだけれど)、父と子は、子が高校生にもなれば、接触的にスキンシップを働くことはない。少なくとも、息子がそれをいやがる。でも、ぼくが見ていたかぎり、少年は父親に触れられることに抵抗を覚えているように見えなかった。かといって、それを喜んで、受け入れるようにも見えなかった。

 人が「想像力」というとき、自分に理解しえないものをなんとか理解しようとする姿勢を指すことが多い。しかし、それが本当の想像力のありかただろうか。少なくとも、ぼくは彼らのことを理解することができなかった。もっと言えば、そこにありがちなストーリーを「想像すること」に、ぼくは抵抗を覚えた。じゃあ、そのときぼくが何を考えたのかというと、「決して彼らの事情をうかがい知れることはできない」という感情だった。ぼくと、父子の間に深い断絶がある。「そこにストーリー性を持ち出すことで理解した気になる」そのことに警戒心を抱いた。

 想像力を働かせる。それはプラスの意味で使われることが多い。けれど、どう想像しても理解できない、そんなことに気づくことが重要なのではないか。

 「わからないという想像力」というのは、想像力の本質は「わからない」というなのではないか、ぼくはそう考えるのだ。

 根拠はある。

 子どものころや思春期には「世の中で声高に叫んでいる常識」に対する不信感があった。大人に言われても納得できず、ただ「わからない」という感情をもてあましていた。ところが、それが十数年経って、「あのとき感じた疑問の答えはこうなんじゃないか」と、突然理解できることがある。

 さっき「軽々しく分かるということは想像力とは言わないのではないか」と言った。それはより正確にいうなら「わからない」と認識し、その「わからないこと」を忘れずに、ずっと疑問にもつこと、それが「わからないことを理解する重要なプロセスなのではないか」ということだ。もう少し丁寧にいうなら、「わからない」という断絶があるからこそ「わかる」という感覚に達することができるのではないか、いうことだ。「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉は案外真実をさしているのではないか、そうぼくは思うのだ。そして、「求める」ためには、決して理解できないという断絶が必要なのではないか。だからこそ、人はわかろうとする。疑問を持たなければ、「わかる」という領域に達することができるのではない。そして「わかる」という領域に達するためには、その前提として「決して、理解できない」という思いがあるからこそではないだろうか。

 他人の気持ちなんてわかるわけがない。そもそも、自分がどう感じているのか、とうことを言語化すること自体が困難な作業だ。

 こっから少し、論理を飛躍させるが実は「わからない」という思いを持っている状態が既に「想像力を働かせている」状態なのではないか。「わからない」という状態から「わかる」という状態になった瞬間、ぼくらは本質から遠ざかってしまうのではないか。なぜなら「わかった」瞬間、ぼくらは考えることをやめてしまうからだ。もし、断絶を感じたなら、そのときこそ想像力を精一杯働かせているのではないか。

 とはいえ、先日みた父子の光景をこうして文章化した途端、「わかったつもりになっている」領域に踏み込んでいる気がする。

 勘違いしてほしくないのは、決して「わかる」ということを否定しているわけではない。ただ、「わかる」に至るまでの「わからない」時間を大事にしなければと、ぼくはそう思うのだ。

 想像力という言葉には甘い誘惑がある。共感することはかまわない。ただ、「わからない」ものは「わからない」ままにしていくこと、そんなときこそ、頭をフル回転させている時間なのだと思う。考えることの喜びはわかった瞬間にあるのではなく、わからないものをわかろうとするその過程にあるのではないか。「あれは一体何を意味するのだろう」そんなことを考えながら天井をみつめる。「わかったかな」と思って、数日もたてば「本当にそうなのだろうか」と思ってしまう。「わからない」ことは世の中に満ち満ちている。全てを理解するには情報が多すぎる。「わからない」ことを「わからない」ままにしておくこと、それも想像力というもののあり方の一つではないのだろうか。