魔法科高校の劣等生 一章雑感

達也さんがかっこ思える理由は、大人だけど子供というところだろう。ハードボイルドとソフトボイルドの中間、ハーフボイルドともいえる感じかw。

どこらへんがハーフボイルドかというと、周りの美少女女子高生を見てもたじろかない程度には大人だが、彼女ら彼らの子供じみたしぐさをみて「やれやれ」と思う程度には子供というところかな。本当のハードボイルドだったら、子供はそもそも相手にしないで優しく接するか、見捨てる。なぜなら割り切った人間関係を作る/作れる環境にいるのが大人だからだ。だから無理してこどもに付き合う必要がないし、そうした場合でもある程度距離感を保つことができる。

それとは違い、学園生活はいやでも人間関係を作らなければならない。達也くんはそれまで大人と付き合ってきたせいで同学年の子が子供に見えてしまうのだけれど、そこで距離感を保った関係を築くことができない。

で、美少女に出会っても、まあ一応外見を見てしまうのだけれどw、それに優先して中身を見てしまう。そして例え中身が子供であっても人間関係を構築せざるを得ない。

この微妙な感覚が達也の微妙なハーフボイルド感をかもしだしているのだと思う。

では、そんな達也を読者はどういった視点で見ているのだろう。

いくつか推測できると思うのだけど、まずは美少女に動じない達也さんカコイイでしょう。動じないどころか「へー若いのにいろいろやるじゃん」くらいの勢いで、お前いくつだよ!と思うのだけれどw。まあ、まだ一章しか読んでないからわからんのだが達也さんの最強具合って設定として強いではなくメンタル面の強さってあると思うんだよね。もっと言えばかなりのハーレム状態なのに主人公に対する嫉妬心が生まれない。

で、ぼくの達也さんカコイイはどこからくるかというと、誰もが一度は妄想する「女の子に対して、やれやれと距離を持つ自分カコイイ」を間違いを犯さず実現しているところなんだよね。じゃあ、間違った「やれやれ」感は何かというと初期村上春樹氏作品を真に受けちゃった「やれやれ」感w。いやあ思春期のころ思いましたよ。「俺は村上春樹氏作品の主人公のように振舞っているけど、なぜもてないんだろう」ってw。

でもまあ、そりゃ当たり前なんだよね。たしかにがっつかない余裕というのはモテに必要なんだけど、その余裕というのはいろいろな経験に裏打ちされたものじゃないと意味がないんだよね。んで、そういう裏打ちされた「やれやれ」も通用するのは共学の高校くらいまでなんだよね。大学以降はある程度は自分から積極的にアプローチしないといけないからね。距離感保とうとしても接せざるをえない環境にある内までなんですよ「やれやれ」感だけで通用する時分は。

もう一個妄想部分があるとしたら、二十歳ぐらいに妄想していた「今の俺が高校にタイプリープしたらリア充になれるんじゃね」を見事に体現しているのが達也さんなんじゃないのかなーって思うんだよね。どういうことかというと、その二十歳ぐらいの妄想って結局「僕のあのときの間違った選択を回避したい」にすぎなくて、その程度の妄想だとその選択を回避しても回避したがゆえに生じるあたらしい困難には全く通じないわけで。そういう妄想視点からみると達也さんマジパネエなんですよ。その妄想からイベント回避後の新しいイベントにも常に「正解!正解!」でステップ踏んでいるわけで。つまり、リアル思春期にとってもオッサンにとってもどっちからでもカコイイと思えるのが達也さん最強伝説なんですよ。

クールでニヒル。でも、おっさんから見るとちょっと子供成分を残しつつ、そこもかわいらしいという。うう、達也さんかっこいいなあ。